「毎日 壁が迫ってくるみたいだ」と
マークは言った。
ドンドンと 見えない壁が迫ってきて
押しつぶされそうになる。
不安で 苦しくて
とてもつらいようだった。
日々 小さくなってくる世界から
何とかして脱出しようと
もがいていた。
「自転車がいる。 歩いていくのは
無理だけど 自転車なら
大丈夫だと思う」
突然 マークが言い出した。
例によって なにかの思い付きで
これなら大丈夫と思い込んで
いるのだろう。
「前に キャシーと二人で
誕生日のプレゼントに
自転車買ったでしょ。
でも ほとんど乗らずに
ここの管理人の息子に
あげたじゃない」
また 前のことを忘れているのかと
思い出させるように私は言った。
「あの自転車は ロードバイクで
タイヤが細くて乗りにくかったんだ」
確かに 安定が悪かったのか
こぎだしたときに家の前で
転倒したことがある。
どんなふうに 転倒したのか
見ていなかったが
チノパンが破れて 膝から
血がダラーッと出ていた。
血を見ると 気絶しそうになる
マークは 何とか立ち上がり
足を引きずりながら
泣きそうな顔で帰ってきた。
それ以来 あの自転車は
ホコリをかぶっていた。
「今度は クロスバイクを買うから
大丈夫だ」
何が 大丈夫なのか?
どうせ 買っても乗らないに
決まっている。
それでも 言い出したら
子供のようにしつこく
言い続けるので 自転車を見に
行くことにした。
少し前までは 気分のいいときに
「歩きに行こう」と私を誘った。
ただ 歩きに行くだけなのに
その前に 足の筋肉をほぐすために
私にマッサージを頼む。
床に横になったマークの足の経絡に
沿って 私がつま先で 軽く
踏んでいくという簡単なものだった。
それでも10分ぐらい かかる。
「歩くこと自体が 準備体操みたいな
ものなのに その前に マッサージが
いるの?」 と ヨーコさんも
あきれて 笑っていた。
自転車なら 準備運動代わりの
マッサージはいらないかもしれない
という 期待もあった。
オーストラリアでは 自転車に
乗ることはスポーツだと
考えられている。
日本のように 買い物や通勤の道具と
いう感覚はない。
当然 値段も高くなる。
日本のママチャリのように 手軽な
価格のものがあればいいのに…。
結局 セールで500ドルで売っている
ものを 交渉して1割引きで
買うことにした。
チェーンにズボンのすそが当たって
汚れないように すそを留める金具と
水のボトルホールダーも買った。
どれだけの長距離を自転車に乗って
行くつもりなのか?と 思ったけれど
何も言わなかった。
サドルの高さを調整してもらって
買ったばかりの自転車に乗って
帰ることにした。
車で来たので 私が運転して
帰ることになる。
マークは 車が見えないと不安だと
言うので 彼の姿が見えるように
距離を保ちながら運転した。
何をするにしても
ほんとに面倒くさい人だ。